海外で量産されるスーパーファミコンっぽいインディゲームに感じる違和感

 コラム 
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 著者:シェループ 

1990年に任天堂から発売されたゲーム機「スーパーファミコン」は、発売から30年以上が経った今も国内外で根強い人気を誇っている。その背景には「スーパーマリオカート」「クロノ・トリガー」「ドラゴンクエストV 天空の花嫁」といった今日も語り継がれる多くの名作が誕生したゲーム機だという事実がある。

海外で量産されるスーパーファミコンっぽいインディゲームに感じる違和感

年月の経過と共に、最近はスーパーファミコンに影響を受けたらしいゲームも作られるようになった。とりわけ個人開発者や小規模チームが作るインディーゲームの台頭以降はさらにその数が増えた印象だ。また、そのようなゲームは主に海外から出ることが多い。日本からも決して無い訳ではないものの、比率としては海外に寄っている感じだ。

筆者もスーパーファミコン直撃世代なので、スーパーファミコンっぽいゲームには反射的に飛びついてしまう。
実際に購入し、最後まで遊んだタイトルも少なくはない。

ただ、主に海外製の多くは筆者から見て、思う所のある作りだった。
共通して欠けているものの存在が引っかかったのである。

スーパーファミコンのゲームの特徴

スーパーファミコンのゲームの特徴とはなんだろう。
分かりやすいものを挙げるなら、色鮮やかなドット絵、独特の音色を奏でる音楽、拡大・回転・縮小機能を駆使した演出がある。

実際にスーパーファミコンに影響を受けたゲームの多くは、前述に挙げたものを特徴としている。「テラリア」、「Owlboy」、「スタデューバレー」といったインディー生まれの海外製タイトルはその象徴的一例だ。

海外で量産されるスーパーファミコンっぽいインディゲームに感じる違和感

スーパーファミコン直撃世代から見ても、例に挙げたゲームの見た目はまさにあの頃のまま。懐かしさから衝動的に注目してしまうほどだ。しかし、いざ遊んでみると中身はあの頃のままではない。

「Owlboy」ならばコントローラの右スティックと2種類のLRボタンを活用する操作スタイル、「テラリア」ならば物理法則に基づく挙動を見せる物体などの動作がそれに当たる。いずれもスーパーファミコンでは実現困難だったものだ。より細かい所を突き詰めれば、解像度の比率、処理落ちしないなども違いと言えるだろう。

海外で量産されるスーパーファミコンっぽいインディゲームに感じる違和感

そのため、思い出を胸に遊ぶと、強い違和感を抱かせるものになってしまっている。

何もそれが悪いという訳ではない。むしろ、時代を踏まえれば適切なやり方と言える。そもそもスーパーファミコン直撃世代から見れば懐かしくても、スーパーファミコンを知らない若い世代には古臭いゲームにしか見えない。そういった世代にも関心を持ってもらうためには、元のゲーム機では実現不可能な表現や操作スタイル、そして今の時代にも通用する技術を駆使したシステムを組み込むのは避けられない。

むしろあの頃できなかったことを突き詰めた方が魅力的なゲームになるし、直撃世代から見ても時代の移り変わりや進歩を強く感じさせられる作品になる。そういった様々なメリットを考慮すれば、スーパーファミコンで実現できなかった要素が実装されていても問題はないと言える。

ただそれを考慮してでもある。筆者としては例に挙げた海外製のタイトルに共通して欠けているものの存在が気になって仕方がないのだ。

それは操作に対する反応の弱さと妙な生々しさだ。

必ず大きな反応が返ってきたスーパーファミコンのゲーム

スーパーファミコンのゲームは確かに色鮮やかなドット絵、音楽、回転・拡大・縮小機能を駆使した演出が特徴だ。しかし、これは筆者の主観になるが、それら以外に、「反応の大きさと気持ちよさ」も挙げられるのでは、と思うのである。

「反応の大きさと気持ちよさ」は何かと言えば、プレイヤーが行った操作に対してゲームが返してくるリアクションのことだ。アクションゲームを例に出せば、敵に攻撃が命中した時に爽快な効果音が鳴り響いたり、倒した時に派手に爆発するといったことを指す。

海外で量産されるスーパーファミコンっぽいインディゲームに感じる違和感

筆者が思うに、スーパーファミコンのゲームはジャンルを問わず、この大きな反応を欠かさず実装していた。実際スーパーファミコンの名作には、決まって象徴的な効果音、それに伴う反応が存在する。「ファイナルファンタジーIV」から「ファイナルファンタジーVI」までのファイナルファンタジーシリーズは最たる例だろう。指の形をしたカーソルを動かす音、敵を倒した時に鳴り響く効果音と、徹底して強烈な反応を描いている。

アクションゲームやシューティングゲームでももちろん大きな反応が実装されていた。「スーパーマリオワールド」で敵を踏みつけた時の「ポコッ」という音、接触してミスになった際のマリオの表情、「がんばれゴエモン2 奇天烈将軍マッギネス」でボスを倒した時の無駄に派手で仰々しい大爆発。いずれもプレイヤーの行ったことに対する反応としては気持ちよいものになっている。これで攻撃が命中した時に一瞬動きが止まる演出、「ヒットストップ」も表現されていれば鬼に金棒だ。

海外で量産されるスーパーファミコンっぽいインディゲームに感じる違和感

もちろんスーパーファミコンでも中には地味で残念な反応が返ってくるゲームもある。しかし、名作と言われるゲームには決まって見事な反応があり、遊んだ時に印象深い体験と思い出を残してくれる。そういったゲームの本質とも言える面白さ、ボタンを押せば何かしらの反応が返ってくることを突き詰めていたことが、筆者が思うにスーパーファミコンのゲームの特徴だと考えるのである。

しかし今の、特に海外製のスーパーファミコンのようなゲームはどうだろう。多くは音が生々しかったり、当たった際の反応が地味で弱いというものが多い。前述で例に挙げた「テラリア」は特に分かりやすい。

海外で量産されるスーパーファミコンっぽいインディゲームに感じる違和感

土を掘る時には生々しい音がするし、敵を攻撃した時に至っては生ものを叩いたかのような「ネチャッ」とした音が鳴り響く。正直、反応として気持ちよいものかと言えば厳しい。むしろ気持ち悪い。グラフィックとのミスマッチも目立つ。いかにもゲームらしい見た目から現実味のある音が返ってくるのだ。
これは何故なのか。開発ツールの制約か、もしくは文化や価値観の違いか。可能性としてはどちらもあり得る話であり、批判しようにもしにくい側面があるのが難しい。

ことに文化や価値観の違いとなれば殊更である。これは当時のスーパーファミコン時代に発売された海外製タイトルでもごく一部に存在するのだが、反応全般を生々しくしたり、地味な表現に抑える傾向がある。それは現行のゲーム機で発売されている大型タイトルにも現れており、アクションゲームでは特にリアルな音が鳴り響きがちである。もちろん、中にはそうであっても確かな反応を表現しているゲームもあるが、全体としてはリアルさ重視で、反応は静かなものにしている印象だ。

海外で量産されるスーパーファミコンっぽいインディゲームに感じる違和感

それがスーパーファミコンのようなゲームにも、他の昔風のゲームにも影響しているとなれば、もはや意見を申したとしても改善は望みにくい話かもしれない。
だとしても、である。筆者としては見た目も昔風にするならば、反応全般もそれに忠実な表現にすることを厳守できないものなのかと訴えたい。純粋に見た目の懐かしさとのミスマッチが甚だしいし、あの頃のゲームらしさも損ねている。何より見た目通りの反応が表現されず、ボタンを押していて気持ちよくなりにくくなっているのは、期待に対する裏切りに繋がっているようにも感じる。

そうは言っても開発に用いるツールで音が作れない、フリー素材に頼るしかない事情もあるかもしれない。現にこの辺りの反応については、総じてきちんと表現される傾向のある日本製のスーパーファミコン風ゲームでも、事情からか、反応全般がイマイチなものになってしまっている例はある。音はよく鳴り響く反面、攻撃が命中した表現が絵と一致していなかったり、逆に音が無音であるなど。事情が事情ならば、それも止む無しと思うが、反応が残念だと遊んでいて楽しい気持ちが喚起されないのは避ける必要のあることではと考える。

海外で量産されるスーパーファミコンっぽいインディゲームに感じる違和感

ゆえにこそ、スーパーファミコンのようなゲームを作るに当たってはもっと、反応の部分に目を向けていただけないものなのかと思うのである。

海外で量産されるスーパーファミコンっぽいインディゲームに感じる違和感

繰り返しになるが、長らく支持される数十年前の名作には決まって反応の素晴らしさが存在するだ。派手さはなく、地味なものでも音を駆使して仰々しくしていたりなど、プレイヤーが楽しい気持ちになってもらうための工夫が凝らされているのだ。ことにスーパーファミコンのゲームはそこが最もよく出来ていると、筆者は考えている。

海外で量産されるスーパーファミコンっぽいインディゲームに感じる違和感

あの頃の憧れを動機にゲームが作ること自体は素敵なことだし、今のように個人でも作れるようになった時代は本当に凄く進歩したと実感させられる。だが、筆者としては憧れによる情熱のまま走る一方で、あの頃のゲームが支持され、未だ遊ばれる訳も詳しく掘り下げてもらえないものかと思うのである。

限界がある中でも、何らかの突破口があるだろう、と。
素人の意見にはなるが、そう思って止まないのである。

見た目から連想される反応を裏切らないで、という願い

スーパーファミコン風のゲームを中心に扱ったが、このような反応に対する違和感が出ているのはファミリーコンピュータ(ファミコン)に代表される別の過去のゲーム機に影響を受けたゲームでも散見される。それもやはり海外製のタイトルが多い。攻撃が命中したら「ベチャッ」という音が鳴ったり、対象が無駄にリアルな反応、一例として血を撒き散らしながらバラバラになることを見せたりする。

「ホットラインマイアミ」のように、最初から鮮烈な暴力・出血表現を売りにしているのであれば、そのようにするのも納得だが、全くそうでもないもので似た反応を描いているとなると、疑問でしかない。

海外で量産されるスーパーファミコンっぽいインディゲームに感じる違和感

懐かしさを売りにしているゲームの場合、制作側の価値観とプレイヤー側の価値観との対立はどうしても生じる。何があの頃のゲームの醍醐味で、最も印象深かった部分かは本当に人ぞれぞれ異なる。前述の反応云々も長々と書き綴ったが、筆者の主観の域は抜けきれない。反応以上に見た目の方が大事だとの考えもあるだろう。それでも筆者は反応については、見た目を懐かしくしたゲームならば疎かにしてはいけない箇所、むしろ以降のゲーム機に憧れを抱いたゲームでも注目に値することではと訴えるが。

海外で量産されるスーパーファミコンっぽいインディゲームに感じる違和感

これからも見た目は懐かしくても、中身は新しかったり、違和感を抱かせるゲームとの出会いは続いていくのだろう。国内外の色んな開発者、チームが憧れを胸にゲームを作り続けるのは間違いない。

どんなゲームが出てくるか楽しみに思う反面、もっとスーパーファミコンを始めとするあの頃のゲームに対し、深いところまで掘り下げる流れが生まれ、それが出来にも反映されていくようになる未来の訪れに期待したい。憧れを胸に走るのもいいが、そこに秘められた楽しさの源流にも少しでもいいから目を向けてくれればと思う。
海外でそのようなゲームを作る方々の場合は特に。

極端に言えば、ゲームというものはボタンを押したことに対する反応を楽しむ娯楽だ。それが剥き出しなぐらい表現されているのが、スーパーファミコンを始めとする昔ながらのゲームでもある。

その凄さと意義を改めて考える流れが生まれてくれればと思う。

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著者:シェループ
新旧様々なゲームに手を伸ばしては、積みゲーを増やし続けるひよっこライター。アクションゲーム全般(特にロックマンシリーズとメトロイドシリーズ)と戦略シミュレーションが大好物。
Twitter:@shelloop