ダウンロード版躍進の裏で際立ち始めた、パッケージ版の空虚さ?
著者:シェループ
次世代機PlayStation 5、Xbox Series Xが発売された。
この2つのゲーム機には、前世代機からより向上した性能以外にも象徴的な特色がある。それはディスクドライブを搭載しない機種、いわゆるダウンロードソフト専用機が一緒に発売されたことだ。
https://www.youtube.com/watch?v=CsLDdxngiX8
ついにそのような機種が選択肢のひとつに加わるのかと、この発表を聞いた時は感慨深い思いになった。それもそのはず。今やダウンロード形式でのゲーム販売は広く世間に定着したからだ。特に家庭用機のパッケージタイトルは今、ダウンロード版も一緒に発売されるのが当たり前になり、逆にダウンロード版が出なければ、批判の声が挙がるほどになっている。かつては当たり前だったことがそうでなくなり、古いやり方と見なされるようになったのには時代の移り変わりを感じると同時に、技術の進歩した時代を生きているという実感を覚えるばかりだ。本当に面白く、豊かな時代になってきた。
だがその一方で、違和感を抱いていることもある。
パッケージ販売の魅力の低下、物自体の不便さが際立ち始めていることだ。
「空虚」になってきた中身
確かにダウンロード版はゲームディスク、ゲームカードを本体に差し込む手間もなく遊べるから、そのような手間が付きまとうパッケージ版に対し、そんな印象を抱くようになるのも当然だ……という話ではない。
どことなく「空虚さ」が濃くなってきているように感じるのである。
具体的には中身だ。PlayStation 4、Xbox One、Nintendo Switch、そして先日に生産を終えたニンテンドー3DSとPlayStation Vita、さらに加えてWiiU。これらのゲーム機のパッケージ版に共通する特徴で、ゲームディスク、ゲームカード以外の封入物がほんの僅か、酷いと何もないというのがある。
特にPlayStation 4、Xbox One、Nintendo Switchは大半がそうなっている。ニンテンドー3DS、PlayStation Vitaは発売初期のタイトルに説明書、操作解説カードなどの封入物が存在したが、ある時期から説明書は姿を消し、操作解説カードもゲームによっては付属されないものも出るようになり、ついにはそのどちらもない空虚なものまで現れるようになった。
筆者のような家庭用機にダウンロード版が存在せず、パッケージ版には何か封入物があって当たり前の時代を生きた世代からすると、とてつもない侘しさを覚えるばかりだ。
ただこのような方向へ進んだ背景も理解できなくはない。ゲーム内の解説機能(チュートリアル)の充実化、スマートフォンの普及とインターネット環境、そして電子書籍、説明書が必要なくなる技術の発展が存在意義を薄めたのだろう。
現に2010年頃、当時の現行機だったWiiでは、新作ゲームが発売される度に説明書の総ページ数が減少していく傾向が見られた。
当初は20~30ページぐらいあった説明書が、いつしか10~12ページほどにまとめられた薄いものになっていったのである。同じことはPlayStation 3のゲームでも見受けられ、一部には説明書がないものまで現れた。資源削減を考慮してなのか、とも考えられたが真相は定かではない。ただ減り続けた末に消滅した今を見れば、影響は何かしらあったのかもしれない。
各種技術の発展により、ゲームの情報は飛躍的に集めやすくなったのも一理あるのだろう。今では封入された説明書を丹念に読む必要もなく、ゲームをすぐ始めててもチュートリアルなどがあるため、事前に取説を読まなくてもゲームを楽しめる。ある意味で良い時代になった。それにダウンロード版のような形式上、説明書を始めとする封入物を付属できないものも誕生した。その存在も考慮して、説明書が付くパッケージならではの強みを無くし、差異を少なくする意図もあるのかもしれない。
しかし、封入物をなくす必要は果たしてあるのだろうか?さすがに行きすぎでは、と思えてしまう。パッケージは物理的に存在するからこそ、説明書などの封入物を付けられるが、一方で起動の際にはゲーム機本体にディスク、カードなどのメディアを挿入する手間が生じる。ダウンロードは物理的に存在しないゆえ封入物は付けられないが、ゲーム起動の手間は格段に減ってゲームを気軽に遊べるようになるほか、ゲーム機にもよるが、処理速度が向上するメリットも得られる。
まさに長所と短所で、それらが際立ってこそ、異なる選択肢としての魅力は光ると思えるのだが、今やパッケージからは物理的に存在するゆえの魅力が殺がれ、自分の手持ちに加えたとの実感が辛うじて残る程度。しかも、今ではダウンロード版にも「ダウンロードカード」、空箱パッケージのダウンロード版もごく一部ながら出てきて、それ自体も揺らいでいる。
ダウンロード版の利便性が評価され、普及率も上昇傾向にあるなら、古いものが淘汰されるのは自然の摂理ではある。ただ、こうも魅力の数々を削って移り変わっていくのはどうなのか?まだ元々の魅力が残ったまま淘汰されていくのなら仕方のない話と思えるのだが、どうもこの流れには違和感を抱いてしまうのである。
これに加えて、不便さも年々際立ってきているようにみえる。
共通仕様による差異の少なさ、そして「蓋」
特にPlayStation 4、Xbox Oneのパッケージ版がそれに当たる。共にディスクメディアを採用したゲーム機で、遊ぶ際には本体のディスクドライブにゲームディスクを挿入する。
これが少し前の同系統のゲーム機なら、挿入後に電源を入れれば直に始められたが今は違う。ゲーム機側の内蔵ディスクにゲームデータをコピーする手順が挟まれ、その完了後に遊べるようになる仕組みになっている。
要はパッケージ版でもダウンロード版同様、本体側の容量を消費するのだ。さらに消費容量にも差がない。2020年7月にPlayStation 4で発売された「Ghost of Tsushima」を例に出すなら、パッケージでもダウンロードでも約40GBを使用する。
唯一差異といえるのはディスクを入れる手間の有無。普通にゲームを遊ぶのが目的、手持ちに加える実感なんて要らないとなれば、ダウンロード版が最適解になってしまうのだ。当然ながら、パッケージ版にも説明書などの封入物はない。「Ghost of Tsushima」の場合なら特典ダウンロードコンテンツのプロダクトコード、近い時期に発売された新作タイトルのチラシこそあるが、それ以外はサッパリで、本当に自分の手持ちに加えた実感を得るぐらいしか価値がない。その手持ちに加える実感も裏を返せば、場所を取ることを意味するので、保管するの環境によってはデメリットにもなる。
まさに販売形態としての魅力以上に不便さが際立ってしまっている感じだ。
ただ、PlayStation 4もXbox Oneも本体へのディスク挿入自体は簡単だ。Nintendo Switchだと、挿入口に備え付けられた「蓋」を摘まんで開けて差し込まなければならない手間が発生する独自の不便さがある。
Nintendo Switchはカードメディアを採用したゲーム機だが、差し込む際の手間が地味に大きい。件の蓋がやや本体側に張り付くように装着されている上、開けた後、少しだけ後ろ側に曲げる必要が生じるのだ。
筆者はこの点に煩わしさと折れたりしないかとの怖さを感じており、Nintendo Switchでは結構、ダウンロード版を進んで買ってしまっている。似たような蓋はPlayStation Vitaにもあり、こちらもまた負担が大きく、ダウンロード版を選ぶことが何度かあった。最初、パッケージ版で買うも、後でダウンロード版へと切り替えたものもある。
このような蓋が備え付けられたのもホコリの侵入、カードメディア紛失を対策してなのだろう。だが、反って面倒臭さ、使い勝手の悪さが増しており、結果的にダウンロード版の利便性を際立たせることへ繋げてしまっているようにみえる。それでもPlayStation 4、Xbox Oneと違い、データコピーに要する容量は僅かなので、本体の内臓ディスク、microSDカードの容量を節約できるメリットは出せている。しかし、そのために差し込む時の手間が生ずるとなれば、(個人差はあるが)億劫な気持ちになりやすいものだろう。
どちらの施策もよりよいゲーム体験のためにとの意図は察せる。しかし、その配慮がダウンロード版と別の選択肢としての弱さを際立たせているのには、何かがおかしいと感じてしまう。さらにこれらは確固たる仕様ゆえ、修正を要望すること自体も無意味という実態だ。
これではパッケージ版に対して厳しく出過ぎでは、と言いたくなる。そしてなぜ、ゲーム機や販売形式が進化、多様化していく中で昔ながらの手法が返って利便性を落としていくのだろうかとの違和感も抱いてしまう。それこそが進化の過程における止む無き代償なのかもしれないが、腑に落ちないというのが筆者の率直な印象である。
持ち物にできる魅力の再認識と追求を願って
色々とパッケージに厳しい世の中になりつつあるが、それでも自分の手持ちに加えたとの実感、気に入らなかったゲームは売却できる点で独自の強みは維持できている。
後者はダウンロード版でも返金システムが少しずつ発展しつつあるため、いずれ強みでなくなるかもしれないが、物理的に存在するがゆえ、現行機が引退した後にも残り続けられる点で勝り続けるだろう。ダウンロード版の場合は、権利元の倒産、事業整理などが起きると二度と買えなくなる大きなデメリットがあるからだ。
後世に残りにくいという怖い一面はあれど、プレイすることについてはダウンロード版の魅力は突出している。ディスクやカードを差し込まず、ゲーム起動後のホーム画面でアイコンを選べばすぐに遊べる手軽さ、定期的に遊ぶタイプのゲームとの圧倒的な親和性の高さ、そして何よりもネット環境さえあれば売り切れの心配もなく、いつでもどこでも遊べるのは本当に素晴らしい。ディスクやカードの製造費がかからないがゆえ、個人や小規模なチームが制作したインディーゲームを販売しやすい環境を造り上げた功績も見過ごせない。おかげで今は、驚くほど個性豊かなゲームが発売され、遊べる時代にもなったのだ。さらにはダウンロード販売が基本であるスマートフォンのゲームも広く浸透した世の中だ。もはや無くてはならない存在である。
このような事情が重なって、ダウンロード専用機が台頭してくるのも自然な話ではある。しかし、まだパッケージにも十分な価値と存在意義があるのに、不便さを際立たせて意図的に淘汰させようとしているように見えてしまうのは気のせいだろうか?
専用機の選択肢が加わって、主に家庭用機においてはこれまで以上の飛躍と浸透が考えられるダウンロードソフトの販売。今後、クラウド技術が発展すれば、ますますパッケージはニッチなものになっていくのかもしれないが、こういう時代だからこそ、改めてその独自の価値を見直してみてもらえないものかと思う。ダウンロード版のメリットを推すのは分かる。だが、推し過ぎるあまり奇妙な歪みが生じ始めていないだろうか?
最近はインディーゲームが後発でパッケージ販売される例も増えてきているが、その内のひとつで、2020年4月に発売されたNintendo Switch版「Enter of Gungeon(エンター・ザ・ガンジョン)」には永久封入特典として説明書、ステッカーが付くようになっている。
多少値は上がっても、改めてこういうパッケージならではの強みを突き詰めてみてはどうだろうか。ダウンロードコンテンツのプロダクトコード、サウンドトラックのような特典もいいが、もっとゲームという持ち物に対して愛着が持てるようなものを付けられないのか。そんなことを思うこの頃である。