加速する中国ゲーム市場の今昔「中国情報部から来た男」:黒川文雄のエンタメSQOOLデイズ 第4回
著者:黒川文雄
巨大なゲーム市場を持つ共産国家、中国。2017年の中国ゲーム市場は3兆円を突破しました。歴史的な背景や政治的な問題を加味しても、もはや日本のゲーム業界にとって中国市場は無視できないものになりました。さて、13年前の2005年、中国ゲーム市場が今の50分の1ほどだった頃、中国からある男性が黒川氏を訪ねてやってきました。(SQOOL.NET編集部)
「私は中国情報部出身で、共産党幹部とのコネクションが強い。わが国ではコネとオカネがモノを言います。」
渋谷の246沿いにある大きなビル内にある、大手インターネット関連会社の応接室で紹介された中国人は、自己紹介を兼ねて日本語でそう言った。
彼をSさんとして話を続けよう。
Sさんは、ネイビーブルーの仕立ての良いスーツに、目の細かいシルクで織られたエルメスのネクタイを身につけ、髪は綺麗に整えられ、肌の手入れも行き届いたいかにもエリート然とした男性だ。おそらくかなりの高学歴だろう。母国語に加えて英語、そして流暢な日本語などを加味しても、「中国情報部出身」「共産党幹部とのコネ」も事実だろう。
2005年当時、私は株式会社デックスエンタテインメントを経営していた。
デックスエンタテインメントは映画とオンラインゲームというコンテンツを展開する、珍しい業態の会社だった。経営的な課題は映像部門の売り上げの浮き沈みが激しいこと、つまり映像コンテンツである程度のヒット作が出れば大きなキャッシュを生むが、製作費、編集費、製造費という先払いコストが多く、安定しないビジネスが続いた。
一方でゲームは、日本での先駆けとしてカード対戦型のオンラインゲームを導入したこともあり、大きな金額ではないがビジネスとして安定しつつあり、イベントやキャンペーンによって毎月の売り上げをある程度予測することができる安定型のビジネスになっていた。
中国へのオンラインゲーム配信の誘い
その安定したオンラインゲームのビジネスが目に留まったのか、渋谷にある大手インターネット関連会社の子会社の代表から
「御社のオンラインゲームを中国にライセンスしてみませんか?」
というオファーが入ったのだ。
その大手インターネット会社本体の代表とは2001年ごろから面識があった。夢を実現する社長として有名だったこともあり、私は彼に敬意を払い、大きな信用を寄せていた。そのため、その社長経由ではなかったもの、子会社の代表からのオファーということもあり、Sさんとの面談に応じたのがその経緯だった。
Sさんは話を続けた。
「私は中国でオンラインゲームのビジネスを開始するために、日本の有力なコンテンツの中国展開のため権利を買いたい。中国ではこのようなネットビジネスは免許制であり、各省ごとに展開を行わないといけないが、私の会社ならば展開できる」
「そして何よりも、私は中国共産党幹部とのコネも強いので我々にライセンスしてほしい」
というものだった。
日本のライセンス販売の代理店としてその大手インターネット会社の子会社が契約し、現地のコントロールもすべて行うという。
「良い話だ・・・」
と判断した。
間に入る会社は子会社とはいえ、大手インターネット会社の傘下にある。そしてその代表自らがメインランド・チャイナから来た男性との交渉を行う。乗っておくべきと判断して契約の準備に入ったことは言うまでもない。
北京で見たS氏の会社と不安
その会談から2カ月ほど経った頃、Sさんから
「我々の北京本社に来てみませんか。歓迎します」
というメールが来た。
Sさんがどんな会社を経営しているのか、実際に実務を担当する社員たちはどんな人たちなのか、権利元としては知っておくべきだと思い、当時のゲーム事業部長と北京に飛んだ。
空港に着くとSさんが手配した社員が丁重に迎えてくれ、我々をホテルに送り届けてくれた。
ホテルは王府井街(ワンフーチン)と呼ばれる歴史のある歓楽街で、日本で例えれば銀座のような地域で、昼も夜も賑やかな場所だ。
ホテルに着いて、しばらくするとさきほどの社員が迎えに来て、Sさんの会社に行くことになった。ホテルからSさんの会社までの距離は2キロくらいだったと思うが、フォルクスワーゲンの「サンタナ」という、日本では不人気だった国際展開車両のタクシーが、ものすごく多く走っていたのが印象に残っている。
正確な記憶はもうないのだが、Sさんの会社が入っているオフィスビルは北京でも5つ星ホテルと称されるシャングリラホテルの横にそびえたつオフィス棟だったような気がする。まあ、そのビルの立派さには圧倒された。
しかし、中に入ってみると意外にも小さな仕切りのある小型の事務所系、今風に言えばSOHO系のコンパクトサイズの会社がたくさん入っているオフィスだ。Sさんの会社も社員を特に多く雇用しているようではなかった。想像の域を超えないが、ブローカーのような仕事を生業としている様子だ。
さきほどの送迎社員が我々が開発した日本語版のカードゲームをプレイしているが、プレイ・ルールがよくわかっていないようで、中国語で「攻撃」「攻撃」と言って戦略や戦術などを考えずにひたすら「攻撃」ボタンを押していた。それも含めて、オフィスビルが立派すぎたことと、実際のSさんと彼の会社の実情にがっかりした記憶がある。
とは言うものの、Sさんはやる気だ。
「中国での展開は任せてほしい。免許もすぐに取れるし中国語へのローカライズも進める」
と言っていた。
その夜は中国式の歓待を受け、一緒に同行した部長は酒を浴びるほど飲まされトイレで倒れて寝込むほどだった。
翌日は少し観光をしようということで天安門広場、紫禁城、そして中国で唯一と言われた紫禁城内の故宮博物館の片隅あったスターバックスコーヒーでアイスラテを飲んだ。
街に出てみればともかく人が多い。体の不自由な人が歩道橋の上にいて物乞いをしているという現実も目にした。宿泊したホテルの裏手にはバラック小屋のような建物があり、そこを高い塀で囲っていたのも観光客対策かもしれない。
「あと、もうちょっとで免許が取れます」
帰国後、北京のSさんとはメールでゲームデータを送信して、ローカライズについてのやり取りがをしていたが、その後1年が経過しても何も始まらなかった。
問い合わせをしても、
「今やっています」
「あと、もうちょっとで免許が取れます」
というような、古典的な漫才のような押し問答が続いた。
結局最後は間に入っていた大手インターネット会社の子会社の代表に問い合わせを行い、
「もう実現性が無いならば契約は無かったことにしましょう」
ということになった。大手インターネット会社本体の代表からも丁重なお詫びがあった。
結局のところその1年間、私の中国ビジネスは対外的には何も進まなかった。
中国ゲーム市場、急速に変化する巨大市場の今
「中国情報部から来た男」との出会い、あれから13年ほどが経過した。
今夏、8月3日から8月6日まで、メインランド・チャイナ、上海市で開催されるアジア最大のゲーム系展示会2018 China Joy(チャイナジョイ)に参加することになった。
これには「SQOOL.NET研究室」の管理人、加藤氏の熱量に依るところが多いが、現在の中国とアジアのゲーム系マーケットの可能性を感じるために訪問することになった。
上海も90年代の終わりに新作ビデオゲームのノベルティ製造の現場を見学するために訪問したことがある。当時もすでに賑やかな街だったが、まだオールド上海と呼ばれた街並みがあったような気がする。スピルバーグ監督が外国人として初めてロケ撮影を許可された作品「太陽の帝国」のシーンに登場するのがそれだ。
今はずいぶんと様変わりしてしまったことだろう。そして先に述べたような怪しげなブローカー・ビジネスのようなものの淘汰されてしまったのではないだろうか。いつの間にか中国のコンテンツのセンスが日本のコンテンツのテイストをうまくコピーし、そしてそれにさらに上書きを重ねているように思う。
もしかするとあのときのSさんも実は中国のオンラインゲームビジネスで大成功を収めているかもしれない。
しかし、だとしたら灼熱の会場で彼にすれ違うことはないだろう。Sさんのオフィスが冷房でキンキンに冷えていたことを今も覚えている。
「なんでこんなに冷やしているんですか?」
と尋ねるとSさんはこう言った。
「部屋を冷やすと悪い黴(ばい)菌が死ぬんですよ」
おそらく彼は冷房の効いた部屋でくつろいでいるはずだから・・・