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寺院の石垣から彦根城まで。戦国時代から幕末までの多彩な石垣の見どころを、コアに、ディープに紹介!
滋賀県内には約1300カ所の城跡があり、その数は全国でもトップクラス。中でも石垣を見て歩くのが趣味の私が、ぜひ一度見ていただきたい石垣を7つ選びました。
幾重にも石を積み上げて造った石垣は、天守や堀とともにお城の大きな魅力です。ところが、「城」が「土へん」に「成る」と書く漢字であることが示すとおり、戦国時代の初めまでのお城は、土を掘り積み上げてその上に木で造られた施設があるというものでした。
滋賀県では観音寺城跡や鎌刃城跡といった、石垣をもつ戦国時代の城跡が数多く見つかっています。江戸時代の城へと受け継がれていくお城の石垣は、近江で生まれた技術とも言われるゆえんです。
滋賀県には、天守・石垣をもつ近世城郭の原形となった織田信長の安土城跡や、豊臣家の石垣技術の先進性を伝える八幡山城跡、徳川の泰平の世を創った彦根城跡など、時代の画期となったお城がたくさんあり、多彩な石垣を見ることができます。
今回は、滋賀県にある魅力あふれる 7つの石垣を厳選して紹介します。
お城の石垣の起源! 中世寺院の石垣 (高島市 長法寺跡)
古代の朝鮮式山城を除くと、日本のお城には、戦国時代の始まりまで石垣はありませんでした。最初期のお城の石垣は、お寺が持っていた石垣の技術を使って築かれました。
中世の近江では、延暦寺や金剛輪寺、百済寺などの山岳寺院が勢力を伸ばし、山中に多くの堂塔や僧侶の住む僧坊などを設けました。寺院の石垣は、僧坊などの法面を守る擁壁として造られました。戦国時代には、近江守護六角氏が寺院の石工たちを呼び寄せ、観音寺城に石垣を築かせたことが知られています。お寺の技術をもとにお城の石垣が築かれたのです。
織田信長の兵火で廃絶したと伝わる、高島市の長法寺跡では、お城の石垣の基となった中世寺院の石垣を見ることができます。長法寺跡は、湖中に立つ鳥居で有名な高島市の白鬚神社の背後の山中にあり、山中には、本堂跡の基壇や庭園跡のほか、僧坊跡とみられる50 カ所以上の平坦面やそれらを結ぶ通路跡が樹林の中に良好な状態で残されています。
長法寺跡へは、高島市勝野の日吉神社の登り口から山林を通るハイキング道で片道2時間以上を要します。また、クマ・シカなどの野生動物も生息しています。遺跡を見学する際には、詳しい地図や登山装備を用意した上で、安全に十分留意してお越しください。
所在地:滋賀県高島市鵜川
最古級の城郭石垣 (近江八幡市 観音寺城跡)
近江守護六角氏が築いた観音寺城跡は、近江八幡市と東近江市にまたがる繖山にあります。城は、山頂から南山麓にかけて数百の曲輪が造られた日本最大級の城跡で、観音正寺の境内や坊跡を取り込んで築かれたとみられます。六角氏の居館(守護所)や家臣団の屋敷地などの多くの曲輪に石垣が認められ、当時は石造りの要塞都市のような景観を呈していたと考えられます。
観音寺城の石垣は、弘治3年(1557年)頃に湖東三山の金剛輪寺に所属する石工達が築いたとする記録が残っています。この城の石垣は、自然石を使った野面積の石垣で、国内最古級の城郭石垣といえます。
所在地:滋賀県近江八幡市安土町石寺
時代の変革者 織田信長の居城の石垣 (近江八幡市 安土城跡)
天正4年(1576年)、織田信長は家老の丹羽長秀を総奉行として、琵琶湖の内湖のほとりに安土城を築きました。天下布武の拠点となったこの城は、城内を石垣で固めた、本格的な総石垣の城郭でした。
石垣は、自然石を使った野面積の石垣で、馬淵(現在の近江八幡市馬淵町)をはじめ、近江各地の石工たちが動員されたと伝わります。また、天主周辺の石垣は、表面が激しくひび割れて、赤く変色しています。本能寺の変の後の混乱で建物が炎上した当時の火災の激しさを今に伝えています。
所在地:滋賀県近江八幡市下豊浦
渇水の年にしか会えない石垣 (大津市 坂本城跡)
坂本城は、元亀 2 年(1571 年)に織田信長の命を受けた明智光秀が、延暦寺・日吉大社の門前町であった坂本に築いた水城です。宣教師ルイス・フロイスが安土城に次ぐ第二の名城と評したこの城は、天正 14 年(1586 年)頃に廃城となり、建物や石垣などが移築された結果、現地には当時を偲ぶ遺構がほとんど残されていません。
平成 6 年(1994 年)、記録的な大渇水によって琵琶湖の水位が大きく下がり、湖中に沈む坂本城本丸跡の石垣が姿を現しました。石垣は通常の水位では水の中にあり、渇水などで琵琶湖の水位がマイナス 60〜70cm 程度まで下がらなければ、見ることができません。
琵琶湖岸の地盤は軟弱なため、そのまま石垣を築くと、不当沈下を起こして崩れます。坂本城跡の石垣は、丸太材を胴木として敷いた基礎の上に築かれています。同様の技法は、江戸城跡や大坂城跡、高槻城跡などの江戸時代の平城の石垣にも多く確認されます。
日本の多くの大都市は江戸時代初め頃に、河川が形成した湿潤な平野に造られた石垣を持つ平城やその城下町を核として発展しました。そうした大都市の繁栄は、戦国時代、琵琶湖岸の湿地に石垣を築くことを命じられた、近江の名もなき工人達の創意工夫の上に成り立っています。
所在地:滋賀県大津市下阪本3丁目
本能寺の変の黒幕? 織田信澄が築いた石垣 (高島市 大溝城跡)
令和8年(2026年)の大河ドラマ「豊臣兄弟!」(NHK)では、俳優の緒形敦さんが演じる、信長の甥の織田信澄が本能寺の変の黒幕として描かれ、大きな注目を集めました。実際のところ、信澄が本能寺の変に関与したことを示す史料は残されていませんが、明智光秀の娘婿であったことが災いし、謀反の疑いをかけられて殺されたことが知られています。
大溝城は安土城・長浜城・坂本城とともに、琵琶湖の水運を押さえる拠点として、天正6年(1578年)に信澄が築いた水城です。琵琶湖につながる乙女ヶ池の湖畔に残る天守台は、安土城とともに最古級のものであり、大ぶりな自然石を使用した、野面積の石垣で築かれています。
所在地:滋賀県高島市勝野
豊臣家の築城技術を今に伝える石垣 (近江八幡市 八幡山城跡)
八幡山城は、天正13年(1585年)に秀吉が甥の豊臣秀次のために築いた城郭です。しかし文禄4年(1595年)の秀次の失脚に伴い、秀吉の命によってわずか10年で廃城となりました。
秀吉は、大坂城や聚楽第、伏見城など、多くの城郭を築きましたが、そのほとんどが破却され、現在見ることができません。八幡山城跡は、秀吉が築いた城の中でも最も残りが良い城跡といえます。
写真は、八幡山城の本丸北西にある石垣の隅角(石垣のコーナー部分)です。角の石垣は、下半部に自然石(割れていない褐色の石材)が使われていますが、上半部には長方形に整形された白っぽい石材(花崗岩)が使われており、上半部が下半部よりも後に積まれたことが判ります。上半部は、積み木のような長方形の石材を長い面と短い面を一段ずつ交互に組み合わせて積むことで、石垣に高い強度を持たせる「算木積み」と呼ばれる技法が用いられています。この技法は、一般的に慶長10年(1605年)以降に全国の城に広がります。この石垣は、八幡山城が廃城となる文禄4年(1595年)以前に積まれたものであり、算木積みが全国に広まるより10年以上早い段階で用いられていたことになります。豊臣家がいち早く最先端の築城技術を取り入れていたことを示す、貴重な物証です。
所在地:滋賀県近江八幡市宮内町
徳川の泰平の世を創り、維持した石垣 (彦根市 彦根城跡)
彦根城は、豊臣家や西国大名への防衛拠点として、徳川家康が築城を命じた井伊家の居城です。工事は、慶長9年(1604年)より、諸大名を動員する天下普請として行われました。関ヶ原の戦い後の不安定な情勢を受けて、短期間で築城するため、廃城となった長浜城跡や大津城跡、佐和山城跡の建物や石材なども利用して構築されました。国宝の彦根城天守は大津城の天守を、重要文化財の天秤櫓は長浜城の大手門を移築したものと伝わっています。また、鐘の丸の石垣は、石材の分析から佐和山城の石垣を移したものとされます。
天秤櫓の石垣(写真)は、門の両側で石材の色や積み方が変わっています。門の右側の茶色っぽい石垣は、築城当初(慶長年間)に積まれた石垣です。一方、左側の石垣は嘉永7年(1854年)の天秤櫓の解体修理時に新たに積み直されたとみられ、割石を使った落とし積みの石垣となっています。門を挟んで、大坂冬の陣までの不安定な情勢下に急いで築いた野面積の石垣(右側)と、幕末に修築された落とし積みの石垣(左側)が並ぶ天秤櫓の石垣は、約260年続いた江戸時代の平和な社会秩序の維持を担った彦根城を象徴する石垣といえます。
所在地:滋賀県彦根市金亀町1
お問い合わせ:0749-22-2742
https://hikonecastle.com/index.html
滋賀県観光キャンペーン「戦国ディスカバリー 滋賀・びわ湖」について
「戦国ディスカバリー 滋賀・びわ湖」は、滋賀県と公益社団法人びわこビジターズビューローが実施する観光キャンペーンで、県内に数多く残る戦国時代の城郭・史跡や武将ゆかりの地を活用し、周遊観光等を促進するものです。令和7年(2025年)11月から令和8 年(2026 年)12 月まで実施され、イベントや周遊企画、情報発信等により滋賀の戦国の魅力を広く発信しています。
詳細➡ https://sengoku-discovery.biwako-visitors.jp/
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