周回プレイはありかナシか、あるべき周回について思うこと
著者:シェループ
最後まで楽しんだゲームをまた最初から楽しむ。
「周回」と称されるこの行いは、いわゆるやり込みプレイのひとつと言われる。
主にプレイヤー自身が気に入った作品に対してクリア後にもう一度最初からプレイし直すもので、ゲームに慣れ親しんだ人なら、少なくとも1本は周回プレイに励んだ思い出の名作があるかもしれない。
ただ中には周回を強制する作品も少なからず存在する。そのような作品は物議を醸しやすく、筆者個人としても思うところがある。
全てが終わってもまた最初からの強制形式
そもそも周回は、プレイヤーが自主的に行うものだ。しかし近年は制作側がプレイヤーに再度遊んでもらうことを狙って、専用の機能や仕掛けといった特典を周回プレイに設ける例が増えている。
象徴的なものが「ニューゲーム+(プラス)」、またの言い方で「強くてニューゲーム」。RPGを始め、成長要素のあるゲームに採用されやすい特典だ
「ニューゲーム+(プラス)」「強くてニューゲーム」はその名称が表す通り、初回プレイで育てたキャラクターのレベル、集めた装備、お金などを引き継いで最初からやり直しができるというもの。1周目の時よりも楽にゲームを進められることや、それによりストーリーに集中して楽しめるなど多くのメリットがあり、周回特典としてはよく採用されている。
マルチエンディング、ストーリー分岐も周回の特典の一例だ。
どのようにプレイするかでストーリーの展開が変わったり、最終的な結末が変わる。主にアドベンチャー、ノベルゲームでの採用率が高い仕掛けだが、RPGやアクションアドベンチャーといった、中編~長編の別ジャンル作品でも採用されることがある。
そして「隠し要素」。1周を終えた後、より難しい難易度が選べるようになったり、実績(トロフィー)が得られるようになるというものだ。新しいプレイヤーキャラクターが開放される場合もあり、これは主に対戦格闘ゲームで見られやすい。
他にも難易度の上昇、敵配置の差し替え、特殊なエリアへ入れるようになるなど、特典は実に様々だ。ただこれまでに挙げた例はあくまでも強要ではなく誘惑。もし再び遊びたいのならぜひ活用してください、変化を楽しんでみてくださいといった具合に、まだまだ遊びたい、物足りないというプレイヤーに対するおもてなしとも言えるものになっている。
それとは対照的なのが強制形式である。周回しなければ本当の最終ボスと戦えない、完璧なエンディングが見れないなどといったもので、本来自主的に取り組む類のやり込みを無理矢理やらせるものだ。
1周すれば終わるはずの本編を再び最初からやることを強いるため、プレイヤー側からすると迷惑極まりない要素のひとつとも言える。批判もされやすいのだが、未だこれを試すゲームは後を絶たない。
2021年2月に発売された「帰ってきた魔界村」もそのひとつだ。元々、周回の強制と言えば「魔界村」と、よく名前が出される程度に、このシリーズにおいては定番になっている。周回でないのが逆に不思議なぐらいだ。
ただ例えそのような歴史的背景があるのだとしても、「帰ってきた魔界村」の周回は大変思うところのあるものだった。同時に強制形式という手法の拙さ、大事しなければならない事柄を再認識させられたのである。
それは「動機」と「理由」。
「なぜ周回しなければならないのか」と納得の行く説明をすることである。
なぜまた最初から?理由が無ければ苦行でしかない
そもそも周回とは、苦労して乗り越えたステージ、イベントを再び最初からやり直すことを意味する。それを強いるのだ。プレイヤーの視点からすれば、「どうしてここまで頑張ってきたのにまた最初からなんだ!」と、言いたくなるだろう。
ゆえに、きちんと周回しなければならない理由は必須だと筆者は考える。例えば「最悪の未来を回避するため」、「宿敵にトドメを刺すのに必要なアイテムを集めるため」、「一連の出来事を把握した上で最善の答えを選ぶため」などだ。実のところ過去の魔界村シリーズはそうした理由付けをきちんと行うことを欠かしていなかった。
ところが直近の新作「帰ってきた魔界村」はその理由付けや説明もなく、なぜ必要か分からない隠しアイテムを全て集めなければ本当の最終ボスと戦えず、完璧なエンディングも見れないとして、プレイヤーを延々と周回させる仕組みにしてしまっていたのだ。
例によって筆者もそれにハメられれた。周回すべき理由がわからないため、取り組む気にもなりにくく、やっている最中にも「なぜこんなことをしているのだろう……?」との疑問が湧くだけだった。周回というものは理由を欠くと、こんなにも不愉快なものになるという事実を思い知らされたのである。
筆者は魔界村に限らず、周回を強制されるゲームには過去幾つか巡り逢っているのだが、思い返せば周回する理由などの設定が雑なものほど、取り組む気力は湧きにくく、全てを終えるのに異様な時間を要してしまっていた。
中には理由らしい理由もなく、1周の時点でも表現できることをあえて分割させた作品もあり、それに関しては一切やらずに打ち止めたこともあった。
その作品の名は筆者自身、口にしたくないほど嫌っている都合により、勝手ながら割愛させていただくが、1周するのに30~40時間近くを要する長編で、明らかにプレイヤー側にかかる負担への理解が及んでいないものだった。
逆に進んで取り組んだものは、そう言った動機、理由付けが大変にしっかりとしていた。中には感動すら覚えたものもあり、名前を出すと、2003年にゲームボーイアドバンスで発売された「ASTRO BOY 鉄腕アトム アトムハートの秘密」はそのひとつだ。
本作もまた、周回を強制させる形式のアクションゲームだった。しかしながらその理由付けは腑に落ちるもので、プレイヤーを「必ずやり切る!」との気持ちにさせてくれる、強制形式かくあるべしと評しても過言ではないほど見事なものだったのだ。
理由付けの詳細にはストーリーの核心及びネタバレに触れる関係で言及は避けるが、今思い起こすだけでも、あれほど強制周回形式に納得できて、進んで取り組みたくなる例は稀有なものだったように思える。
それだけ強制形式というものは取り扱いには神経を配る必要があると感じるのだ。
周回そのものが嫌いというプレイヤーの存在も踏まえれば、複数回遊んでもらうための理由付けは欠かしてはいけないだろう。幾らシリーズに周回の印象が浸透していたとしてもだ。
「このシリーズは2周以上してくれる人が多い」という事実があるとしても、皆が皆そうではない。そういったことを考えなければならないのではないのだろうか。
元は自主性に委ねられるやり込みであることを忘れずに
ただ、こういった意味のない周回は一時期よりは悪目立ちしなくなった印象はある。特に強制形式の採用率が高いアドベンチャー及びノベルゲームでは納得の行く理由付けをする作品が多く、関連する要素が批判されることは少ない。これには「並行世界」、「無限ループ」といった題材を用い、ゲームシステムも交えて周回に意味付けを行った過去の名作が残した功績も大きいのかもしれない。それもあってか、後続の周回を強いる作品でも理由付けはきちんと行われるなど、重要性への理解が進んでいる印象だ。
それ以外のジャンルも「倒したと思ったら、相手に逃げられたからもう1周」、みたいな安易な理由付けは一時期よりは随分減っている。
しかし、理由付けを行いながら2周どころか、3周以上もやり直しを強いたりと、行き過ぎた例もまだ存在する。正直、まだ多くのプレイヤーは1周終えても、きっと遊んでくれると思い込んでいる節はまだ残り続けていると感じる。
開発側に忘れないで欲しいのは、周回はプレイヤーの自主性に委ねられたやり込みであること。進んで取り組むプレイヤーもいれば、1周で終わりとするプレイヤーもいる。それ踏まえて、周回に対して納得の行く理由、動機を設けていただきたいし、周回自体も面白いものにしてほしいと願うばかりだ。おもてなしを基本とする誘惑型でも、一周目の時点で出来そうなことは一周目に入れ、全てを終えた満足感を損ねないようにして欲しい限り。
周回時の充実を図ったり、特徴付けをするタイトルは今後も登場し、発展を遂げていくのだろう。だが、繰り返すが、周回に取り組むかはプレイヤーの自主性に委ねられる。それを忘れず各種特典、仕掛けの発展を進めていってくれることを願うこの頃だ。