未完を隠して続編が作られないゲームへのもどかしさと、そのやり方が淘汰される未来への思い

 コラム 
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 著者:シェループ 

最初に表明しておくと、筆者はゲームに限らず、物語のある娯楽作品には完結を強く求めてしまう性格である。ゆえに未完で終わる作品には人一倍不満を抱いてしまう。俗に「クリフハンガー」とも称される物語を未完で終わらせるこの作劇手法は、今もなお多くの娯楽作品で使われ続けている。

これはこれで手法としては否定しない。
ただ、ことにゲームの未完には前々から思うことがある。
なぜ終わらないことを隠すのか、だ。

ユーザーに物語が完結しないことを隠すのは、良いことではないと筆者は訴えたい。

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最後まで遊ぶと判明する「隠された未完」

未完が採用される事情は様々である。

海外ドラマや、近年ではテレビアニメのように続きの制作が決まっているため。
原作となる漫画や小説が現在も連載中で、そちらに視聴者を誘導するため。
そして人気が無い、視聴率が悪いなど、今後の成長が見込めないため。

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ゲームも続きが決まっていたり、原作となる漫画などが存在するタイトルの場合、未完で区切ったり、中には発売前に「この作品は○部作構成です」、「連作です」などと、あらかじめ報じることもある。
少し特殊な例だが、1作で完結する原作を複数作構成へと改めた「ファイナルファンタジーVII リメイク」はそのひとつだ。

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だがこのように背景が公にされるのは稀だ。ゲームの場合は実際に遊んで、初めて物語が未完で終わってしまうと判明するものが非常に多い。

ひとつ例に出すと、架空のイギリス・ヴィクトリア朝ロンドンを舞台に、「騎士団(オーダー)」と「半獣」なる怪物との死闘を描くPlayStation 4用サードパーソンシューティングゲーム「The Order: 1886」。詳細は伏せるが、本作は物語が完結せず、真の戦いはこれから、という所でエンディングを迎えてしまう。もちろんこのような情報は発売前に何ら報じられていない。ゲームを最後までプレイして初めて判明する。

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もうひとつに2002年、ゲームボーイアドバンスで発売されたアクションコマンド型RPG「トマトアドベンチャー」。これも物語が新展開を迎えるタイミングでエンディングを迎える未完作品になっている。言うまでもなく、発売前このような情報は何も公にされていない。最後まで遊ぶと初めて判明する事実だった。

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他にもニンテンドー3DSで発売された「大逆転裁判 -成歩堂龍ノ介の冒險-」など、最後の最後で未完だったと判明するゲームは多くある。
そして、多くはその情報を公にせず、隠した上で発売に至っている。

なぜ隠すのか?
筆者個人の憶測にすぎないが、ユーザーを驚かせたい、海外ドラマのように継続して買ってくれる「リピーター」を作りたい、という狙いからだろう。
さらに今の時点では続編の制作が決まっておらず、未完にすることでどれだけのユーザーが注目してくれるかを確かめたい、という意図もあるのかもしれない。それが制作側が掲げる一定値に達したら続編制作を決断する。主に有名なシリーズ作品ではない完全な新作は、これを狙って未完にしている可能性が考えられる。

だがそのようなものに限って期待通り続編が作られず、打ち切られることが多い。現に前述で例に挙げた2作は、2021年の今も続編は発売されていない。それどころか、将来的に発売される可能性は無いに等しくなっている。

「The Order: 1886」を開発したReady at Dawn社は現在、VRゲームの開発に軸足を移行。今では家庭用ゲーム機からは遠ざかってしまっている。

「トマトアドベンチャー」を開発したアルファドリームは2019年に破産。もはや続編どころか、リメイクすら絶望的と言ってもいいだろう。

未完であることを隠し、ユーザーの関心を惹きつけながら、続きが作られない。そして、やむを得ない事情によって作れない状態になってしまう。

ユーザー視点から言うなら、「最初から1作で終わるように作れよ!」である。続編が作れる見込みはあったのか、願望だったのかは2作共に定かではないが、もし願望でそうしていたのだとしたら物申さざるを得ない。
結局待たされた末に出ないのだから不愉快の極みだ。

同時に、もう未完を隠すやり方は淘汰される段階に来ているのではと思えてしまう。前述の2作がやったやり方は、避ける必要のある手法になってきていると思えるのだ。

隠された未完が秘める負の力は大きい。
ことにゲームだと、それが膨れ上がってしまう。

未完であることを肯定的に捉えられるやり方の重要性

負の力が膨れ上がるのは、ゲームが体験型の娯楽であることにも由来する。

強敵との死闘。高度なテクニックが試される難所。複雑なパズル。
物語のある作品ならば、思わず心を抉ったり、不快な気持ちにさせる展開。
それら多くの困難を乗り越え、やっと辿り着いた末に未完だ。

最初からそのことが分かっているならまだいい。
何も知らないまま、辿り着いた結末がそれではいい気にもなりにくいものだ。
「ここまで頑張ったのは何だったの?」と、怒りの念が湧いてしまうだろう。
辿り着くまでに嫌な思いをするなど、苦労が大きければ殊更である。
そして「続編を出せ!」と、制作者の思うツボな願望が湧き起こる。

その末に続編が出ない、である。人によっては、ゲームの出来次第ではいい思い出にもなるかもしれないが、続きが出ないモヤモヤとした感情は残り続けるだろう。作品に対して否定的な立場にもなりかねない。

ちゃんと続編が出たとしても、前作の印象が悪ければイメージの回復は難しい。実際に「大逆転裁判 -成歩堂龍ノ介の冒險-」は本編で後味の悪いエピソードが続き、未完を隠したのもあって、期待したユーザーから強烈な反感を買ってしまう事態になった。
その影響で続編の前評判は非常に厳しく、売上も前作を下回ることになってしまった。続編は傑作と明言できるほど素晴らしく、物語も前作で残された謎を全て明かして綺麗に完結するのだが、結果として未完を隠したことへの代償を払う作品になってしまったのは否めない。

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このような一例を踏まえると、未完を隠すやり方は厳しい。これからは肯定的な印象を持てる未完を心がける必然性が増してきているように思えるのだ。

肯定的な未完で、最も王道は最初から告げられていることだ。
「今回は○部作の第○部です」と予め告げられ、分かっていれば、例えエンディングを迎えて未完だったとしても負の感情は抑え込める。

もちろんこのやり方でも負の感情を誘発する危険は付きまとう。前述の2作の様に会社の方針転換、破産などのやむを得ないで続編が作れなくなることもある。
また、最初から未完が告げられていると、「完結するまでは買わないことにしよう」と判断するユーザーが出かねない問題もある。ゲームを売る側の視点からすれば、リスクのあるやり方なのは否定できないだろう。

だが仮に続編を出せなくなっても事前に宣言していればその背景が考えやすく、未完である意図が分かりやすくなって納得感が加わるのは大きい。販売へのデメリットにしても、そこは例え未完であっても遊んでみたいと思わせる、力強いタイトルへと作り上げられるか次第で乗り越えられるだろう。
前述の通り、「ファイナルファンタジーVII リメイク」はそれを実践した。もう少し周知の必要はあったと思えるが、未完に肯定的な印象を与える施策というのは今後も積極的にやっていく意義があるだろう。

途中で続編が出せなくなる万が一を考慮し、作中の核となる物語を終わらせて締め、その後に何か続きがありそうと意味ありげに終わらせる手法を定着させるのも、肯定的な印象を持てるやり方のひとつだ。

あえて特殊な手順を踏むと見られる、と条件を設けるのもいいだろう。もちろん作中の物語が一区切りついていて、後味を悪くしないものにしているのが前提だが。これはPlayStation 4の「ゴッド・オブ・ウォー」が好例だ。

未完を隠して続編が作られないゲームへのもどかしさと、そのやり方が淘汰される未来への思い

さらに、物語はまだ続くが、このタイミングで締め括られても納得できる、消化不良にならないと感じさせるやり方もある。が、これはかなり高度なバランス感覚が試されるので、実践は容易ではないだろう。
筆者もこの手の例はPlayStation 3の「INFAMOUS 悪名高き男」ぐらいしか知らない。

また未完が普通に許され、強烈なほど肯定的な印象を与えられるケースがある。続編だ。前作の過去を舞台にしてしまえば、それはもう未完で当たり前と自然に納得できる。
最もこれは前作の存在があってこそのため、相当特殊なケースになるが、こういう設定があるなら、未完は狙った方が効果的だろう。
実際、未完にすれば前作の見方が変わったり、登場するキャラクターなどに強い愛着が持てるようになると言ったメリットが得られる。Nintendo Switchでリメイク版が発売予定の「ファミコン探偵倶楽部 うしろに立つ少女」はこれをやってのけた例である。

未完を隠して続編が作られないゲームへのもどかしさと、そのやり方が淘汰される未来への思い

他に「ファイアーエムブレム 烈火の剣」、「バテン・カイトスII 終わらない翼と神々の嗣子」も実践し、いずれも発売から数十年経った現在でも関連作は高い人気を得ている。使えるケースは本当に限られるが、こういう未完は思いきってやって欲しいと思うばかりだ。

例え未完でも、それは喜んでもらえるものか?

結局のところ、ゲームにおいて未完は隠すか、隠さないかで受ける印象は著しく変わる。隠した場合、続きがあるにもかかわらずユーザーに不快な印象を与える要素を散りばめるなどすれば、前述の「大逆転裁判 -成歩堂龍ノ介の冒險-」のような、作品にとって不幸な展開を招きかねない。
逆に公にしていれば、肯定的な印象を抱かせ、批判を多少は抑え込める。

ある意味、この公にする方法で未完に肯定的な印象を抱かせることに成功しているのはスマートフォンアプリのゲームかもしれない。iOSの「Apple Arcade」では、前後編にゲームを分けて配信する手法を取っているため、ゲームの未完に対する印象は肯定的なものになっている。

筆者も「プロジェクトセカイ カラフルステージ! feat.初音ミク」でそんな未完の有難味を日々思い知らされている。これを考えると、未完に悪い印象を持たせないためには公にすること、そして例え途中で終わってしまう想定外があっても、可能な限り負の感情を抱かせないための配慮が必要なのだと実感させられる。

未完を隠して続編が作られないゲームへのもどかしさと、そのやり方が淘汰される未来への思い

使い方次第では作品に愛着を抱かせる手法にもなるが、間違えればユーザーに心の傷を残し、否定的な立場への移行まで導きかねないゲームの「未完」。それを隠すことは、果たしてユーザーを喜ばせることに繋がるのか?

手法そのものの歴史が長いだけあって、今後も未完そのものが淘汰されることはなく、残り続けていくのは間違いない。であればこそ、肯定的な印象を持たれる未完というものを今後は考え、実践されて行くようになってくれればと思う。
未完に好ましい感情を持たない人間としては、そのような未来の訪れに期待したいところだ。

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著者:シェループ
新旧様々なゲームに手を伸ばしては、積みゲーを増やし続けるひよっこライター。アクションゲーム全般(特にロックマンシリーズとメトロイドシリーズ)と戦略シミュレーションが大好物。
Twitter:@shelloop