「四月になれば彼女は」“April come she will”:黒川文雄のエンタメSQOOLデイズ 第1回

 黒川文雄のエンタメSQOOLデイズ 
  公開日時 

 著者:黒川文雄 

4月を迎え、読者の皆様の中には今月から学校や職場など、新しい環境での生活が始まった方も多いと思います。SQOOL.NETでも本日から新たに新連載コラム「黒川文雄のエンタメSQOOLデイズ」が始まりました。エンタメ界のグランドスラム達成者、黒川文雄氏の連載にどうぞご期待ください。

セガ、ブシロード、コナミなどで長くゲームに携わってきた黒川氏ですが、実は新卒で入社したのはゲーム関係ではなく音楽関係の会社でした。現在ゲーム業界の第一線で活躍する黒川氏も、かつては悩める一人の青年。この記事では、新卒入社間もないころの黒川青年について語っていただきました。(SQOOL.NET編集部)

「四月になれば彼女は」“April come she will”:黒川文雄のエンタメSQOOLデイズ 第1回

4月になると思い出す楽曲があります。

それは1960年代後半から70年代にかけて、アメリカを始め世界の音楽シーンを席巻したフォークソング・デュオ「サイモン&ガーファンクル」の「四月になれば彼女は(※原題 April come she will)」です。

歌詞の解釈は様々ですが、4月に出会ったガールフレンドと9月に別れを迎えるまでの短い期間を綴ったものです。アメリカの新入学シーズンは日本とは異なりますが、春は芽吹き、出会いの季節という印象を綴った楽曲としても未だにクラシックなスタンダード・ナンバーとして人々の記憶のなかにあります。

4月は日本では入学、入社のシーズン。私もそんなことを何度も繰り返してきました。その中でも、やはり新卒の入社式は未だに記憶に残っています。

私の就職時期は1984年、特に景気が良い時期ではありませんでした。さらに、私自身の志望先が音楽関係ということで、自ずと選択肢が少なかった記憶があります。それでも、CBSソニーレコード(現在のソニーミュージック)、日本コロムビアなどで、若干名の新卒募集をしていました。しかし、音楽産業は憧れの職業と言う位置づけもあり、募集3人のところに1000人超えという応募もザラでした。

「四月になれば彼女は」“April come she will”:黒川文雄のエンタメSQOOLデイズ 第1回

コピー機のすごいヤツでしょうか

 狭き門、当然ながら、なかなか内定は出ません…。

それゆえに、本来の志望動機とは異なる電気系やオフィス系事務機などの会社訪問も続けていました。とりあえず、手堅い職業も保険程度に入れておくかという安易な発想です。ちょうどオフィスにFAXが導入し始めた頃で、その頃はFAXがなんだかもわからないまま、財閥系のオフィス系事務機メーカーの面接に参加しました。まあ、逆に今の若い人はFAXなんか知らないかもしれませんね。

「はい、では、そちらのクロカワ君、FAXって知っていますか?」と面接官から質問が・・・。

「はい、コピー機のすごいヤツでしょうか」

と答え、それ以降の段階に進むことはありませんでした。そりゃあ、そうですよね。

ミュージシャンを目指すから内定辞退

音楽関係で最終面接までこぎつけたのは、銀座に本店を構えるレコードショップの老舗「山野楽器」。それと文化放送と渡辺プロダクションが半々で株式を所有するアポロン音楽工業株式会社(※)の2社でした。

(※アポロン音楽工業はのちにバンダイミュージックとなり、会社清算、主なプロパティはランティスに引き継がれました)

先に「山野楽器」から内定をいただき、その後「アポロン」からも内定を・・・。

どうせ音楽に関わるならば上流の音楽制作がやりたいワケですから、販売店ではなく、やはりアポロン一択だろうということで「山野楽器」の人事部長のIさんに「学生時代からの夢だった、ミュージシャンを目指したいので内定を辞退したい」というお話をしに行きました。

I部長から・・・

「君は正気ですか?」と苦笑されてしまいました。

さらに、そのとき「いずれ御社の店舗で売ってもらえるようなミュージシャンになりたい」と吹き上げてお許しをいただきました。まあ、変な学生だと思ったことでしょう。でも内定を辞退される企業の立場で考えれば許せない学生だったでしょう。今さらながらですが、あの時は申し訳ありませんでした。

あれ?俺って制作じゃないんだ・・・

最終的に10月後半にアポロン音楽工業に入社が決まり、翌年の4月からは晴れて音楽制作ができるぞ!どんなアーチストのディレクションをしよう!とかアタマのなかで妄想ばかりしていました。

しかし、実際に入社する時期になって、この会社には演歌歌手とプライベート盤(ある種の自費出版レコード)とカラオケの音源テープしかないということに気が付き・・・時すでに遅しなのですが・・・。

入社後2週間の研修を経て、愛知県名古屋市中区栄(東京で言えば新宿か銀座のような繁華街)の営業所に配属となります。ここでも計画は大きく狂いました。あれ?俺って制作じゃないんだ・・・、東京本社勤務じゃないんだ・・・ってことです。

同期の一人が制作に採用されましたが「アイツよりオレのほうが絶対に感性が上だし(何を根拠に?)、ファッションセンスもいいし(関係ないだろうが)、ルックスも少しマシだし(それも関係ないし)」とは思ったものの、他に選択肢があるわけではなく、渋々、名古屋に赴任しました。

鬼のような営業所長

「四月になれば彼女は」“April come she will”:黒川文雄のエンタメSQOOLデイズ 第1回

この名古屋の地で3年間レコード店の営業周りをやりました。ちなみにこの3年間は思い出も多く、名古屋は私にとっての第二の故郷になりました。

当時は営業ノルマが厳しくて、月末に売り上げが足りないと、店舗に商品を大量に「送りつけて」いました。

名古屋営業所のO所長がとても怖かったんです。

「なんで数字いかねえんだばかやろうー」的な、もちろん商品の送り付けは、今も昔もマジでやってはいけないんですが、当時は普通にやっていたんです。

でもカルチャーアイテムというか、レコードでそんなことをやっていたのか…というのを知ったときにはちょっとがっかりしました。

とにかく数字必達!みたいな空気が営業所にはありましたから、勝手に「送りつけて」おいて、すぐその日に電話して「フォロー」と「お詫び」、当然ながら翌月には返品を取ります的な内々の約束事がありました。そんな感じで店と営業所のバランスもギリギリとれていたような感じもあります。

ちなみに売り上げに苦労していたアポロン音楽工業ですが、1984年2月に兄弟会社のSMSレコードからデビューした「吉川晃司」さんの「モニカ」のヒットで一気に持ち直します。音楽産業の良いところであり、悪いところでもあるのは「一発のヒットが会社を救う」ことができるからです。まあ、ゲーム産業も一緒ですね。

腰掛け程度の感覚だったが・・・

 実質3年間、名古屋を拠点にレコード店への営業活動を続けました。途中、何度も会社を辞めようかと思ったこともあります。1980年の中ごろはまだ今と違って終身雇用の機運が高かった時代です。

来る日も来る日も、名古屋市昭和区のモルタル構造アパートの2階の一番奥まった部屋、むき出しの外付け階段をカンカンと昇っては降りを繰り返しました。親にも相談できず、悩んだ時期をもありました。

ただ、自分の居場所はここではないという気持ちだけは3年間忘れませんでした。いずれ自分はここを後にする、言い換えれば、自分は東京の制作に必要な人材だから、ここのいるのは「数年の腰掛け」で、少し我慢すればいいんだという気持ちでした。

でも、自分がレコード店を回って得た「生」の情報や自分で考えた「新企画」を提案することは忘れませんでした。

その時には、かつて自分が「コピー機のすごいヤツ」と言って笑われたFAXを使って、毎週のペースで自分のセールスフィールドの出来事と、そこから発想を得た新商品の企画などをA4に手書きして(ワープロもパソコンもない時代です)送信していました。

自分が必要とされる場所はあるはず

 振りかえってみれば、その名古屋営業所・黒川レポートの内容は・・・

「本社の制作は何もわかってない」「現場を見て制作していない」「もっとこうすれば売れる」「他社はこんな施策をやっている、なぜ弊社はやれない、やらない」「こんな新商品はどうか」「こんなアーチストが売れている」という内容のレポートが多かったと思います。確かに「無いモノねだり」だったかもしれません。しかし、3年間ほぼ毎週欠かさずレポートを送信した結果。

「名古屋に元気でうるさいのがいるから本社でやらせてみるか」ということで入社4年目に本社制作に異動になりました。

入社時の念願は叶い、東京の本社のあこがれのディレクター職、制作職を手に入れたのです。

おそらく、しつこい気持ちと言うか諦めない気持ちと言うのは、既にこの頃から自身のなかにはあったのかもしれません。学生時代はここまでの気持はありませんでしたが、なぜ、社会人になってこのような気持ちになったのかがよくわかりません。しかし、ひとつあるとすれば、自分は東京を離れて名古屋にいる、このままここで人生を終えるのか?、否、そうではなく自分の居場所、自分が必要とされる場所はまだ他にあるはずだという気持ちが支えてくれたのかもしれません。

今に至る私の大半を形成した時代

今思えば生意気な新人だったことでしょう。面倒くさい後輩だったことでしょう。教え甲斐のない社員だったことでしょう。でも、この3年間があったからこそ、自分の社会人として原点があるように思います。得意先との関係性、社会人としての人との付き合い方などなど…私の大半を形成してくれたものはこの時代に構築されたものだと思います。

ああ、面倒くせえなぁーとか、やりたくないことも多かった時代です。その後、東京本社に赴任し、名古屋の諸先輩方の羨望と期待を背負っていたのかもしれませんが、若く、青い自分にはそんな感傷的な気持ちは微塵もありませんでした。

しかし、現実の仕事は自分がイメージしたものとは異なっていることに気が付き、2年後、音楽の仕事を辞める決意をしました。

別れを経て出会い、出会いを経て別れる

振り返ってみれば、自分がイメージした仕事ではなかったことにも価値があることが今はわかります。

何事にも意味があり、その意味がわかれば、無駄だったと思うことも無駄ではなかったということが理解できるようになります。

4月、駅のホーム、満員電車、オフィス街、群れを成して歩く、若く青く、似合わないスーツの青少年をよく見かけます。君たちもいずれそれぞれの「道」を見つけそれぞれの「道」を歩むことになるでしょう。

四月になれば彼女は」(※April come she will)

英語の“She”は彼女のという意味の他にも、船、クルマなど自分にとって大切なものを例えていう代名詞です。

大切なものに出会い、そして別れ、そしてまた何かに出会う季節、そんな季節の訪れを感じてみましょう。

人生はエンタテインメントに溢れています。成功と失敗、別れと出会い、笑いと涙、すべてはセットでバランスが保たれます。今は価値なんかわからなくてもいいんです。いつかわかる時がくれば、それでいいんです。その時は貴方が誰かを導くときだと思います。それがその時の貴方の価値なのだと僕は思います。

著者:黒川文雄
1960年・東京都出身
音楽や映画映像ビジネスの後に、セガ、コナミDE、ブシロード、NHNJapan(現在のNHNPlayart+LINE)などゲーム関連企業でゲームビジネスに携わるエンタメ界の「グラン ドスラム達成者」。
現在はジェミニエンタテインメント代表取締役と黒川メディアコンテンツ研究所・所長を務め、メディアアコンテンツ研究家としてジャーナリスティックな活動も、さらにエンタテインメント系勉強会の黒川塾を主宰。
プロデュース作品に「ANA747 FOREVER」「ATARI GAME OVER」(映像)「アルテイル」(オンラインゲーム),大手パブリッシャーとの協業コンテンツ等多数。オンラインサロン黒川塾も開設。
著書:プロゲーマー、業界のしくみからお金の話まで eスポーツのすべてがわかる本