映画とゲームの今昔「インディ躍進の裏にあるもの」:黒川文雄のエンタメSQOOLデイズ 第5回

 黒川文雄のエンタメSQOOLデイズ 
  公開日時 

 著者:黒川文雄 

「カメラを止めるな!」という映画が流行っていますね。もう観た方も多いのではないでしょうか。

エンタメSQOOLデイズの著者である黒川文雄氏は、実は映画業界出身。その後のゲーム業界での活躍は、映画業界で培った様々な知識やスキルが生きているのだと思います。

参考:【黒川文雄のエンタメSQOOLデイズ】第1回:「四月になれば彼女は」“April come she will”

映画作りとゲーム作りとは似たところがある、と黒川氏。しかしどちらも事業規模が大きくなるにつれてマイナス面も出てきます。

最近注目されるようになった小規模事業者によるいわゆる「インディゲーム」は、小さな事業者だからこその良さがあります。映画「カメラを止めるな」と近いものがあるかも知れませんね。

今回は、映画とゲーム、その制作の今昔を黒川氏に語っていただきました。(SQOOL.NET編集部)

2018年、1960年生まれの私は、今年の12月で58歳になる。

映画とゲームの今昔「インディ躍進の裏にあるもの」:黒川文雄のエンタメSQOOLデイズ 第5回

すでに還暦も見えてきて、ずいぶんと年を取ったなあという反面、58歳ってこんなものか…という気持ちがある。それはシンプルに言えば、58歳になっても人は未で成熟しないものだし、まだまだ成長をしたいという気持ちがあるということになる。もちろん個人差はあるので、私と同じ年齢で、もっと成長、成熟している人もいるということは言っておかなければいけない。

そういえば、先日、ネットニュースで「50歳を過ぎたら同窓会に行ってはいけない」という主旨のコラム記事があった。その概要は同窓会で交わされる会話のほとんどが「病気」「死」「後悔」「懐古主義」「嫉妬」なので、そんな無駄な場所や時間に惑わされることなく、新しい出会いや、世代の異なる友人間関係を築いていくほうが建設的だという内容だ。

映画とゲームの今昔「インディ躍進の裏にあるもの」:黒川文雄のエンタメSQOOLデイズ 第5回

それは正しい。
しかしである…私は2016年に中学校の同窓会を自ら企画して開催したが、同窓会で再会した同級生たちはみんな溌剌としていた。

もちろん中には、「病気になった」、「奥さんが先に旅立った」、「頭髪がさびしくなった」「痛風になっている」等々の話しもあったが、総じてみんな元気。フルマラソンに精を出す者、50歳になって大型バイクの免許をとってツーリングを楽しむ者、剣道の段位昇進を目指す者など、様々な晩秋を彩る生き方を見て自分自身も元気をもらった。

先のコラムの方の周りは知らないが、むしろ「同窓会に参加できる人」のほうが自分の生き方に自信を持っている立場の人たちではないだろうか。

音楽制作の現場とは・・・?

さて、前段が長くなったが、今回のコラムはモノ作りの現場に関してのものだ。

私の人生の振り返りも含めてのものになるため、今回もちょっと長めのテキストになるがお許し頂きたい。では、私が経験した順番通り、音楽制作の現場、映画製作の現場、そしてゲームの現場についてご紹介しようと思う…。

大学を出て、最初に勤務した会社では音楽制作を担当した。…とは言えアーチスト担当ではなかったので、カラオケ用音源や、バックグラウンドミュージック(いわゆるBGM)の音源をスタジオで収録していた。

カラオケ音源制作の場合、主な作業の流れはこうだ・・・。

ヒット曲を調べ、その音源を確認、音源を基に、アレンジャーと呼ばれる人に解析をオーダーし、リズム、ベース、ギター、ドラム、管楽器、弦楽器などの音符進行を譜面にしてもらう。解りやすく言えばバンドスコアだ。その譜面の楽器構成をもとに、インペグ屋と呼ばれるミュージシャンの手配師(会社)に依頼する。インペグ屋の語源はINSPECTORの略。
今でこそ有名なミュージシャンも、昔はスタジオでディレクターに言われるがまま、譜面通りの音楽を再生していた人も多い。

そして楽器構成が決まるとスタジオを決めるのだが、弦楽器を入れるとなると相当大きな規模のスタジオが必要だ。といってもバンドくらいのサイズならば、さほど大きなスタジオは必要ない。そして、収録日に「イチ・ニノ・サン」で音源を収録して、部分的に納得がいかないパートは録り直しを経て、マスターテープが完成する。そのあたりの判断がディレクターである私の仕事だ。

完成したマスターテープを、次は編集スタジオに持ち込み(だいたい同じスタジオで作業するのが一般的)、パートごとの音量のバランスやオリジナル楽曲と違和感がない音源に仕上げれば終わりだ。その後パッケージ用に、歌詞カードの原稿や作曲者、作詞者などのクレジットの原稿を入稿すればあとは工場にマスターテープを送り、半月後には商品になって店頭に並ぶことになる。

映画製作の現場

さて、次は映画だ。これに関しても自分の身銭を切って映画を作った経験があるので、逸話がたくさんある。今回はその中でも映画製作にフォーカスしてお話しよう。

漫画や小説の原作がある場合は、その出版社との権利交渉が最初のハードル。今や人気のある原作モノは、ほとんどがどこかの誰かに押さえられているので、むしろ空いているコンテンツを探す方が大変かも知れない。

仮にあるタイトルの映画化権が取れたとしよう。
そこから始まるのは、まず原作を基に脚本製作だ。まあ、言ってしまえばこの脚本にすべてが集約される。ハリウッドでは脚本を巡っては有名無名の様々な脚本家が登用されたり、降板したりが話題になる。それは、この脚本の出来不出来が映画に直結するものなのでそれは致し方ないだろう。

そして脚本とともに並行して配役だ。このところの邦画を観ればわかると思うが、話題作には有力なタレント事務所が出資しているケースが多く、主役級はその事務所のタレントが占めることになる。お決まりのパターン。そうなると脇役はどうなるかというと、ちょっと変わった人気のある個性派が重用される。例を挙げればムロツヨシさんや滝藤憲一さんあたりが旬だ。

それらとともに資金集めも最終段階に入る。それには出版社、タレント事務所、広告代理店、映画興行会社などが参画するが、たとえば時代ごとに羽振りの良い会社が出資するのが通例だ。

土建国家・日本では建設建築会社、ビットバレー時代には情報系などが多くの映画に出資をした。ハリウッド映画会社のスポンサーを見ればわかりやすい。かつては石油燃料系から始まり、電機系、今は情報系、ネット系、中華系まで、スポンサーは時代を映す鑑。
映画への出資比率はそれぞれのパートナー会社が展開する事業内容とシンクロする。

そして撮影に入るが、日本では、監督が「俺が撮ってやる」といわんばかりの不束者(ふつつかもの)が多い。海外では出資者=製作者(プロデューサー)が全権を掌握しているのだが、日本はそのあたりは歪(いびつ)である。

無事に作品ができあがると映画興行にかける。つまり皆さんがよく御存じの劇場での上映だ。これも初週末の興行収益(数字)で劇場(業界用語でコヤという )のサイズが変わる。動員が思った以上に進めば、予定よりも大きなコヤを開けるし、すくなければ試写室くらいのサイズのコヤ、今はシネコンの各種サイズのコヤ に移動することになる。これらの期間を経てブルーレイ、DVD、ネット配信、テレビ放送、衛星放送などに権利販売をするのだが、かつては一番の稼ぎ頭だった映像系パッケージ商品の売れ行きが惨澹たる状況になり、今はよほどのヒット作品でないと完全回収は難しい時代になった。

ゲーム開発の現場今昔

最後はみなさんお待ちかねのゲーム開発の現場のお話だ。
1980年代から1990年代くらいまでのお話を最初にしよう。この時代はゲーム=著作物の概念が薄かったと思う。どこかの会社でヒットしたビデオゲームがあると、みんな右へ倣(なら)えという時代だった。今では考えにくいが、当時はアーケード向けのヒット商品が筐体輸送途中にライバル他社運び込まれ、そこで全バラされてソースコードを解析され、類似した商品が1カ月後にライバルアーケード店舗等に並んだという話もある。

当時はゲームの企画自体が自由だった。アメリカのゲームや映像のパクリのようなものが多数出回った。しかし、趣味もそうだが、まずはウマイやつのコピーをするというのは今も昔も変わらない。かの有名なエリック・クラプトンも若い頃はロバート・ジョンソンなどのブルースギターをさんざんコピーしたのだ。

ゲームも最初に企画ありきだが、今のゲーム会社のように仕様を考えて、予算算出、稟議書を提出して進めるという形ではなかった。個々人が通常業務のスキマ時間に自分勝手に企画を考えて、簡単なプロトタイプや映像デモのようなものを作っていた。

現に私が在職したセガ(現在ゲームス)でも、「バーチャレーシング」の開発が終わったスタッフが、その技術で3DCGキャラクターを動かすことができないか…という自身の研究の一環で考えたものが「バーチャファイター」だったし、 キャラクター  が動かせるんだからサッカーゲームできるんじゃないの?というのが「バーチャストライカー」の開発の発端だ。

映画とゲームの今昔「インディ躍進の裏にあるもの」:黒川文雄のエンタメSQOOLデイズ 第5回

そして、自分自身が考えた秘密のアイディアを基に準備が始まる。それらは上長のところにそっと行って、「こんなの出来たんですけど、どうですか?」的なプレゼンや、喫煙室の会話程度のところから始まったものが多い。これらは当時のナムコでも同じで、夜な夜な有志が集まって「世直し委員会」という名の飲み会で、新しくも面白い企画を話し合っていたという。

そして、そのような研究、映像デモの段階で、上長が「面白そうだからやってみよう」というレベルに達すると、2〜3人のチームになり場所を与えてもらえる。必要に応じてツールを買い足し徐々にゲームらしくなる。ここまで来て初めて経営陣へのプレゼンが行われ、ビジネスとしての可能性がありそうだという判断になれば正式なプロジェクトとしてGOサインがでる

ちなみに今は経営会議とかで50ページくらいのパワポの企画書でプレゼンするケースも多いが、当時は手書きの企画書、開発コストや収益の概算も手書きの計算式や枠線の表を使って行なっていた。エクセルなんてなかったからね。企画書って言ってもせいぜい5枚が限界。

映画とゲームの今昔「インディ躍進の裏にあるもの」:黒川文雄のエンタメSQOOLデイズ 第5回

今のインディーズゲーム開発に通じる何かがあった・・・!

開発が佳境に入るとスタッフがどんどん増強される。これは今も昔も変わらないけど、昔は必然的に、自発的にチームに入っていったケースが多かった。手の空いている人はとにかく手伝うというものだ。

出来上がるとロケーション(ゲームセンター)に運び込み、対ユーザー向けのロケーションテストが始まる。不具合、インターフェイス、ユーザーの反応をチェックしてゲームの完成度をさらに高めるための最終段階に入ることになる。

完成した商品は全国のアーケードに出荷される。

このサイクルの繰り返しだったが、2000年代に入るとゲーム会社の多くが株式上場を果たしコンプライアンス、経営状況の透明性などを謳うにしたがってゲーム開発の現場は息苦しくなっていった。何をするにも稟議書、予算書、そしてある程度の成功を約束されたコンテンツへの集中と選択が始まった。
その結果起こったことは、ナンバリング(続編)タイトルとディフュージョン(派生/拡散)タイトルしかない現状だ。

ここのところインディーズゲームが再び注目されている。その要因にはスマートフォン向けのゲームとしての活路や任天堂が展開するNintendoSwitchがインディー系コンテンツに注目しているという背景事情もある。

映画とゲームの今昔「インディ躍進の裏にあるもの」:黒川文雄のエンタメSQOOLデイズ 第5回

それらの時代背景と、個々人がやってみたいと思うゲームや、これは誰も考えてないぞ、オレってスゲー状態のインディーズゲーム開発者的な気持ちの高まりが大きな要因ではないだろうか。

大きな会社にはプラスもあればマイナスもある。インディーズも同じ、プラスもあればマイナスもある。さらにリスクもある。そんな状況でもかつてのゲーム開発現場のように自分がやってみたいこと、面白いと思えるようなものを探せるというのは幸せなことだと思う。
TOKYO SANDBOX2018、Unite2018、Bittsummit2018なども、ある意味で同じ志をもった同窓会のようなイベントで、それらを後押ししているように思う。

そして当たり前のことだが「同窓会に参加できる人」は自身の存在価値を知ってほしい、高めたい、そして自身のクリエイティブを世に問うというポジティブなマインドを持っている人たちだろうと思う。

(c)SEGA

著者:黒川文雄
1960年・東京都出身
音楽や映画映像ビジネスの後に、セガ、コナミDE、ブシロード、NHNJapan(現在のNHNPlayart+LINE)などゲーム関連企業でゲームビジネスに携わるエンタメ界の「グラン ドスラム達成者」。
現在はジェミニエンタテインメント代表取締役と黒川メディアコンテンツ研究所・所長を務め、メディアアコンテンツ研究家としてジャーナリスティックな活動も、さらにエンタテインメント系勉強会の黒川塾を主宰。
プロデュース作品に「ANA747 FOREVER」「ATARI GAME OVER」(映像)「アルテイル」(オンラインゲーム),大手パブリッシャーとの協業コンテンツ等多数。オンラインサロン黒川塾も開設。
著書:プロゲーマー、業界のしくみからお金の話まで eスポーツのすべてがわかる本